- くまの地産地消フォーラム 「農と自然を考える講演会」
2002.3.9(土)
「百姓仕事が自然をつくる」〜2400年目の赤とんぼ〜
農と自然の研究所 代表理事 宇根 豊
宇根豊さん

 本日のテーマは、「百姓仕事が自然をつくる」ということですが、まさに百姓仕事が自然をつくっているんですね。つくっているという言い方は、違和感があるかもしれない。最近では、百姓も米をつくると言いますが、そうではなく、太陽と土と水と空気と種籾が・・百姓は、ただお手伝い、手入れをしているにすぎない。百姓仕事は、自然をつくっているのであって、農業の近代化技術は自然を破壊しているのです。

1 「百姓」という言葉は、差別用語か?
 詳しくは、後でお話ししますが、まず、本題に入る前に百姓という言葉を使っている点について説明すると、百姓という言葉は、差別用語だと皆が知らないうちに思ってしまっている人が多い。マスコミや行政機関は、差別用語ではないが差別用語に準ずる言葉として、原則使用しないと決めている。この発端は、昭和48年にマスコミが使用しないことを申し合わせたことである(昔、百姓は殿様の家来で重税に苦しめられていたという誤った認識で江戸時代の名残りである百姓という言葉は使いたくないということから)。しかし、最近の説では、これが間違いであったことが分かってきた。百姓は、年貢を納めていたが、税率は10%で現代のサラリーマンと同程度で、年貢さえ納めていれば、百姓は自由で自立していて、武士は、村(百姓))の取り決めに介入できず、むしろ、武士の方が苦しかった。
 福岡県の農業大学校の入学生に江戸時代の百姓のイメージを聞くと、「百姓は武士に虐げられていた」と答える。こういった誤った認識を正しく教育していくことが大切である。 

2 「メダカ」が田んぼを救った。田んぼの価値とは何か?
 神奈川県小田原で、田んぼの真ん中に都市計画道路が計画された。反対運動を起こしたが、住民の反応は鈍く、田んぼは減反減反でわざわざここで米を作る必要もないのではという感じであった。ところが、水田のまわりの水路でメダカが見つかった。メダカは、神奈川県では、絶滅危惧種ですから、「メダカを守ろう」というスローガンに変えたところ、住民の意向が変わり、そんな身近に自然があったのか?→いつのまにか反対運動が盛りあがっていった。メダカというのは、田んぼで産卵して川にもどる。メダカがいなくなったのは、田んぼにのぼれなくなったのが原因、ほ場整備が原因?!。
 以上にような話は、何か変ではないか?百姓からすると何かムカムカしてくる話。米粒の価値が、田んぼの価値。最も努力してきた米粒の価値では、農業(水田)の価値は、国民には分からず、これまで意図もしなかった田んぼのまわりの環境でその価値が分かる。百姓にとって、本当に情けない話だが、これが現実である。
 つまり、今までの百姓の考え方が根本的に間違っていた。時代の流れにきちんと対応できなかった。こういう現実が、全国いたるところでみられるようになってきたのである。

3 農産物は、自然(カネにならないもの)と結びついている。
 こういう現実の最たるものが、BSE。大臣はBSEに関して、全頭牛を検査して出荷しているから安全と言っており、私も多分そう(100%安全)だと思う。しかし、消費は回復せず、偽装、表示問題でさらに深刻な状況となっている。つまり、肉だけの価値で安全か、おしいしか、安いかという問題を訴えてきただけでは、消費者は安心できない(肉だけの価値だけでは・・)。100%安全保証してもなおどこかに不安が残ってしまうのはなぜか。肉以外の価値、牛の飼い方を明らかにしない限り(現在、牛の百姓が飼い方に責任を持てない状況が続いている)、解決できない。
米で言えば、米のまわりの環境の価値を国民は認識してきたか、農業者は分かっていない。例えば、米−メダカ・赤とんぼ、みかん−アゲハチョウ、生しいたけ−広葉樹・里山、ニンジン−キアゲハ、牛肉−草原など、カネになる農産物には、必ずカネにならないもの(自然))がくっついている。これら自然を守っていくためには、農業を守っていかないといけない。どちらかが滅びれば、もう一方も滅びることになる。
 例えば、アゲハチョウは、ミカン園で育っている。しかし、病害虫の本では、害虫になっている。アゲハチョウの幼虫が原因でみかんが壊滅的な被害を受けることはないのに・・。アゲハチョウの幼虫がみかんの害虫だと推進していることで、人は大事なものを失っているのではないか?
 JR東日本が、外国産弁当の輸入を決めたとき、農水省はこれでさらに米が余り、百姓が困る。しかし、米の輸入を許可しているのは国ではないかと開き直られたら負け。JR東日本は、沿線の風景(田園))を守らなければならないのに、外国産弁当を販売するような、こんなデタラメな企業はない。

4 地産地消推進の本当の理由、農業の農産物以外の価値を語らなければならない。
 農産物が自然と結びついていることが、絶滅(動植物等)が危惧されるようになって初めてわかってきた。やっと農業の価値が農産物以外に見えてきた。農水省はその価値が分かっておらず、多面的機能と言っている。この言い方では、百姓のものにできない。
 例をあげると・・水田は洪水を防ぐという多面的機能があると言っているが、大雨の時こそ百姓は雨を田んぼに溜めないようにしている。稲が生育が悪くなったり、畦が崩れてしまうから。従って、大雨の時にできる限り田んぼに水を溜めないのが稲作技術であり、ということは、お金にならないものを守るような技術は、現代の農業技術にはまったくないということである。自分の田んぼがあるから洪水が防がれているわけですが、できるだけ溜めないようにしても溜まってしまうから結果的に洪水を防いでいるだけである。百姓が意識的にやっていないものを自慢することはできないということになる。→畦があるから、あるいは開田したから洪水がを防いでいる。では、畦はどうやって守られているのかというと、@畦草刈り、A毎日の田んぼへの見回り によって、畦が崩れていないか、畦に穴が空いていないかということがわかるから。しかし、田んぼの畦草刈りなんかに時間をかけるから日本の米はコストがかかり、値段が高くなって負けていく。毎日、朝晩田んぼの見回りを行っているような無駄な作業をしているから生産性があがらない。だから農業は、工業に比べていつまで経っても生産性があがらない。そのようなことから、百姓は、労働時間をを下げてコスト削減し、米価を下げてきた。しかし、田んぼの管理(畦草刈りや田んぼの見回り等)は、近代化されない技術でこれが百姓仕事なのである。この農業の近代化技術にはない仕事によって、自然が守られてきた。だから、俺は畦草刈りをしているから、毎日、田んぼを見回りに行っているから、水が溜まり、洪水が防がれると考えれば、百姓は自慢できる。ただ、消費者がこのことをきちんと理解できるかということですが、これもなかなか難しい。しかし、最近、徐々に分かりつつある。その例を以下にあげると、7年ほど前福岡市が大干ばつで水不足になったとき、市は水田の水を飲用水に買い上げる方針をたて、百姓もしぶしぶ同意した。その結果、市の中央部を流れる川の流域の水田が休耕となった。ところが、その年の夏、百姓に田んぼを作ってもらわない(水を水田に張る)と困る。なぜかというと、そこでも約4割の減反を強いられてきたが、真っ先に住民が困ったことは何か?それは、涼しい風が吹かなくなったことであった。このことは、百姓なら分かると思うが・・・田んぼの中なら防止さえかぶっていれば涼しい。消費者にとっては、涼しい風は、自然現象、まさか水田の上を風が通ることによって涼しくなってたなんて、想像もできなかったことである。百姓はそのことは知っていたが、絶対に言わなかった。あなたの家はいつも網戸にしているけど、あの網戸に入っていく風は、うちの田んぼの上を通っていくから涼しくなるんですよ。私の顔を見たらいつも涼しい風をありがとうとお礼を言ってくださいなんて、絶対言えない。そんなこと言ったら反発をかってしまう。つまり、百姓が生み出しているもの(自然)は、すべてタダで提供されている。そのことを百姓も一言も自慢しない。百姓は自信も意識もない。しかし、このことを意識していかないと自然は守れない。意識していかないと、地元に農業がなければならない理屈が消費者に伝わらない。つまり、お金になる生産物は、お金さえ出せば、これだけ輸送手段が発達してしまえばどこからでも買える。ということは、農業を農産物だけの価値でみてしまうと、地元の農産物を消費しなければならないという理屈がなりたたなくなってしまう。つまり、お金で手に入るものは農産物。これにくっついているのが自然(お金にならないもの)。
 米には、涼しい風、メダカ、カエル、赤とんぼ、ゲンゴロウなどがくっついていることを百姓は語らなかったから消費者は知らない。赤とんぼのほとんどが田んぼで生まれていることを消費者は知らない(百姓でも知らない人がいるが・・・。金にならないものを意識しなかったから)のである。

5 赤とんぼは、田んぼで生まれている。
 ごはん茶碗一杯で、赤とんぼが何匹育っているか想像したことがありますか?私の田んぼでは3株で茶碗一杯の米、赤とんぼは一匹、1反当たりに換算するとなんと5000匹にもなる。日本記録は、秋田の八郎潟で1反15000匹生まれている。赤とんぼは、皆が知っており、好きだと言う人が多いが、茶碗一杯の米でどれだけの赤とんぼが生まれているか知らない。赤とんぼが絶滅危惧されるようになてきて初めて分かるようになるのである(幸い、まだそのような事態になっていないが・・)。
 8/15頃に現れる赤トンボは、薄羽黄トンボ(関西以南)でそれ以外は、秋アカネ(東北)という赤ドンボ。田んぼに人が入ると「なぜ赤とんぼが寄ってくるか」というと虫が出てきて餌が食べられるから、百姓が赤とんぼを殺さないということを知っているからである。なぜ、赤とんぼが好きなのかというと田んぼで生まれるからである。ということは、日本に田んぼがなければ赤とんぼはほとんどいなかった。赤とんぼは、水が浅く、流れていないところでしか育たないからである。従って、赤とんぼは開田とともに赤とんぼが増えてくる。我々の祖先は赤とんぼは稲と一緒に日本へ渡ってきたんだと思ったらしい。だから、赤とんぼを大事にしなければならない。大切にするから赤とんぼは百姓の近くに行くと餌がたっぷりと食べられる。だから、ついつい百姓に寄ってくるようになった。寄ってくると、自分を慕ってきたんだと思い、赤とんぼに好かれているんだと悪い気はしない→赤とんぼを好きになっていった。
薄羽黄とんぼは、今の時期(3月上旬)は、卵、幼虫、成虫とも日本にいない。ところが、田植えの時期に産卵しにきている。これは、東南アジアから飛んできていることが分かった。従って、この熊野地域では、6月末頃にたくさん赤とんぼがうまれてくるはず。田植え後、35日後に赤とんぼが生まれるが、赤とんぼが飛んでいるのは自然現象だと思っている方が多いが、そうではない。田んぼへ水を張って稲をつくるからであり、百姓の生産物といえる。こうやって日本の自然を生産しているのである。

6 田んぼの生き物を復活させるには・・
 ハクチョウは、田んぼの落ち穂が主食で、田んぼで稲を作るからハクチョウが越冬できている。
兵庫県では、コウノトリを繁殖しているが、このコウノトリは夏の田んぼでどじょうやタニシ、オタマジャクシなど田んぼの生き物を餌にしているが、農薬によって、餌が減り、絶滅の危機に瀕している。このように、人は、生物が天然記念物や絶滅危惧種になってから大切にしようとするが、いつの間にかそれすらもどこで育っていたかさえ忘れてしまう。ましてや、ありふれた生物であったならば、なかなか関心をいだかない。絶滅に瀕して初めて関心を持つようになるが、これでは手遅れとなってしまう。現在、兵庫県のコウノトリは約100羽に増え、野生に戻す計画を立てているが、水田の生物(餌)を増やさないと元のもくあみ。そこで、水田の減農薬を進めていこうとしており、様々な研究が始まっている。
 冬の水田に水を溜めて、ガンやハクチョウを呼び戻そうというグループもある。その時期には多数見物人が来て賑わっている。広大な面積に水を溜めることによって、身近な自然を守っているのだ。
 以上のように、百姓は、ボランティア活動で身近な自然を守ってきたのだ。しかし、それを意識していない百姓が多く、環境保全型農業をすると収量・品質が低下したらどうするんだという考え方。

7 農産物以外の農業の価値を伝えていかなければならない。
 みかんや米などの農産物以外の価値を伝えていかないと、国民の意識は変わらない。直接販売であれば、このことをすぐ伝えられる。市場経由では難しい。百姓は、農産物を売る場合、農薬使っていない、朝どりで新鮮、堆肥使用しているから、おいしいなどにより訴えるが、このニンジン30本でキアゲハが1匹育ているとは言えない。
 農産物とそれ以外のものが結びつければ良い。それができるのが地産地消。地産地消では、消費者にこのようにカネにならないものを伝えていくことが大切。そのことを消費者は薄々気づいてるから、直売所へわざわざ農産物を買いに行く。今のままでは、百姓はカネにならない部分を教えていかないから堕落していくのだ。

8 ドイツの政策(農産物以外の農業の価値を認めている) 
ドイツでは、完全に自由化されたリンゴの価格は、なんと1,000円/100kg、これを原料にしたジュースは地元周辺でたくさん売れている。その理由は、おいしい、無農薬、安い、搾りたてでおいしいといった理由ではなく、これを飲まないと美しいリンゴ園の風景を守れないという住民の意識があるからである。この農村の美しい風景は、私たちの財産で、リンゴジュースを飲むことによって支えていくという意識が国民にある(JR東日本駅弁と正反対)。そのため、ドイツの農村はとても美しく、荒れた土地はまったくない。日本では、荒れた土地ばかりであり、こんな国は世界には存在しない。
 日本では、このような文化を育てるのに失敗している。これから育てなければならない。そのための方法としての地産地消運動でなければならない。付加価値を付けて売るだけの「地産地消運動」では、地域は決してよくならない。例えば、みかんの花の香りを嗅いだことを消費者はない。みかんに対する考え方を変えるよう、香り、アゲハチョウを生み出している価値を伝えていく。さらに、国民がどのような支援をするかが重要となってくる。
 ドイツでは、百姓の年間所得の平均は、400万円、うち自身の所得は190万円だけ、残りは、国からの助成金で個人に税金が直接投入されている。この政策の補助メニューは、50種以上もあり、環境を守る作業等に対する直接補助で、百姓自ら申請する方式。国民が農家に期待し、認めている、農業をなくしてはダメだという・・。百姓は、これだけ国民に期待されているんだから、いい加減な農業はできないといことになる(良い物を生産供給していくという好循環)。
 例えば、農薬、化学肥料を減らす、営農手法をの記帳だけで、補助金が出る。日本では、金儲けのための記帳にとどまっている。土壌調査だけでもOK。土壌調査によって、適正施肥を行い、結果地下水汚染を防ぐという理屈で国民合意されている。農家の金儲けだけのための助成金は、ドイツでは、国民に理解が得られないのである。日本では、農薬を減らすことによってどれだけ環境が守られているかを、国、県、市町村、JA、百姓が調べてこなかったつけがきて、環境をまもるための補助金は出せないでいる。
デカップリングというのは、生産(価格))と所得を切り離すこと。これは、ヨーロッパの主流で、日本でもやと中山間直接支払い制度ができた。生産物の価格を落としてでも所得を確保すればよいという考え方に基づき、直接税金を投入。もはや、経済原理だけでは、農業を守れないというのが、先進国の共通した悩みであり宿命であるという認識。従って、税金の直接投入により、農業を守ることによって環境が守れるということを国民に説得できればよい。アメリカも早晩そうなるであろう。日本でもこの考え方を進めるべきで、そのために地産地消であるべき。

9 子供に正しい価値観を形成させる。
 どうしたらドイツのような政策を実現できるか、農業に対する物の考え方を元に戻す。そのためには、農業の教え方が間違っている。
学校の教え方(教科書)は、根本的に間違っている。教科書で、農業は大切な産業であると教えている。ところが、その次のページに自動車工業が出てきてそれぞれの生産額を表し、比較している。農業を産業として教えると工業に比べ、お金を生み出さない農業は・・・ということになる。しかし、農業は、食料を生産しているから大切だととくる。しかし、実際は、外国に食料を頼っており、安定的な食料を供給しているのは、外国の農業という実態なので、これでは、説得力がない。
 自動車工業では、車を生産する以外に生み出す物は何もない。田んぼでは、米以外にたくさんのものを生み出している。こんな無駄なもの(自然)をタダで生産しているこんな仕事はない。従って、工業と農業を同列で教えること自体が農業に対する本当の価値を誤らせてしまう。子供たちに本当の価値観を形成するチャンスを奪ってしまうことになる。これでは、まともな国民、百姓が育たない。
お金の世界だけで(価値(生産物)だけで)農業を語るのは限界にきていることをかなりの人が感じてきており、消費者もお金ならない世界を知りたがってきている。そうすれば地元の生産物でなければいけないことが分かってくる。カネにならないものを如何に表現し、国民に評価させる運動を起こすことが大事。そのために我々は活動している。
 子供たちは、お金になるものとならないものの区別はあまりないから、以上のようなことをすんなりと理解できる。だから、子供のうちに教えるべきである。しかし、田舎の子供たちは、可哀想な状態である。というのは、田畑が荒れていくのを目の当たりにしており、田んぼは埋め立てられ、スーパーが建つとスーパーの方が大切なんだ、帰り道がいつの間にか舗装され、メダカの住む水路よりも道路の方が大切で便利なんだと洗脳されていってしまう。ところが、先生、父母らは、生物は大切にせよ。自然を大切にせよ。人と人の関係は大切にせよと口だけで言うので、子供たちはどちらが本当なのか無意識のうちに葛藤している。世の中の仕組み上お金になるものを大切にせざるをえないが、これは本当は悔しいことであるがやむを得ないという価値観を形成していかなければならない。

10 体験学習は、農業体験をさせるべき
 親として教師として大切なものを教える術として体験学習が各地で行われている。学校で、労働体験をさせる授業が取り入れられているが、先生の中には勘違いしている人が多い。労働体験に様々なメニューを用意するが、工場の組み立て作業やレジ打ち作業と農作業を同列に扱うのは間違いである。工場は、マニュアルどおり作業を行うだけで、まったく無駄とは言わないが今やらなくても良いことで、お金以外のものを生み出す仕事ではない。労働の質が根本的に違うのである。成人すれば嫌でもお金になる仕事は山ほどできるのだから、子供のうちに体験すべきはお金にならない仕事である。どちらが子供たちの心に響くかは体験させてみれば分かることである。
 田植え体験の例では、体験作業内容は、手植えであり、田植機を使う体験では自動車の運転と変わらない。つまり、自分の身体で感じるから、素足で田んぼに入って植えるから価値がある。この体験作業の際に「騒いでいないで、早く並んで、さっさと植えなさい」、「真っ直ぐ植えなさい」と教えるのは、農業の生産技術を教えているにすぎず、工場のマニュアル作業とたいして変わらないことになる。
体験の中で、土はなぜヌルヌルしているのか、なぜ田んぼには石ころがないのか。何百年も要して、開田し、堆肥を入れ、石ころを出してきたからこのようなきめの細かい土になった。だから、水を張ったらミジンコや藻類が発生し、様々な生物が集まり、連作障害もなく、無肥料でもそこそこの収量がとれるこういう土になった。その証が子供たちの足のヌルヌル感になって伝わるのである。百年以上もかかってつくられた労働の成果をまったく経験のない子供たちが味わえるような仕事はない(貴重な体験となる)。この感触は一生忘れないものであり、長い人生の中で思い出すきっかけとなる。
 畦草刈りをしている畦が歩きやすいことを子供たちは自分の足で歩いて初めて分かる。このことが人間の手入れによって生み出されるということが分かる。このようなことが農業の中にはたくさんあり、自然を見る目が養われる。学校の先生は、そういう教育を受けてきていないから、百姓仕事の本質を知らない。農業を産業の一部としてしか捉えられない(食料生産のみ)。これを変革しないと、本当の価値観を形成できなくなる。

11 最後に
 様々な場面で、「農業情勢は厳しく・・」と皆が言うが、それは違う。農業が危機に瀕してきたから、その本質が分かってきた。逆に良くなってきたと思う。
 稲作2400年の歴史の中で、田んぼがこれだけ危機に瀕したのは、初めてのことであり、輸入農産物がこれだけ増えたのも初めてである。これまでは、お金にならないもの(農業がつくる自然)は意識しなくても守られてきて、当たり前のように存在してきたし、わざわざそのことを語る(表現する)必要はなかった。今まではそれで良かったが、これからはここを表現していかなければならない時代になり、初めて農業の全体像(お金になるもの、お金にならないもの)が見えてきた。嘆かわしいことかもしれないが、ある意味では良かった。ここを拠り所にして農業を立て直していくことが、我々世代の役割ではないでしょうか。そういう意味では「地産地消」を進めることは良いことであり、ぜひ本気で取り組んで欲しい。

質疑応答
 日々、「お金にならないもの(農業がつくる自然)をお金にできないか」と考えながら農作業を行っています。
 草刈りをしているときに飛び跳ねるバッタを食べに来る鳥は、何か?
 冬の剪定時に後で食べるためか新芽の棘に虫を刺していく鳥は何か?(御浜天地 山本氏 梅農家)
 →前者は、モズです。後者はちょと分かりません(鳥のことは、余り詳しくないので申しわけありません)。ぜひ、地産地消NWを利用して調べてはどうか。

 ドイツでは、なぜ、農業が環境を守るということに対して、税金が投入されているのか詳しく教えて欲しい(一般生活者?)→ヨーロッパと日本では、自然に対する考え方が違うのがひとつの原因。日本は、西洋文化を取り入れているため、現代社会の価値観は同じもしくは似ているが、自然に対する見方は未だに違う。
 ヨーロッパでは、キリスト教の考え方で、神の下に人間があり、その下の自然があり、自然は人間が自由にしてよいという考え方。神様が人間のために自然をつくったという考え方。その結果、人間が自然を過度に破壊してきた。このままでは、神様に申し訳ない。人間が自然を保護してやらないと自然は守れないという考え方。
 日本は、人間と自然は同列という考え。農業が自然を破壊しているという考え方はまだまだ浸透していない。安全な農産物が手に入らないという批判はあっても自然まで破壊するという意識は国民に根付いていない。自然とい言葉自体もともとなく、自ずからなるという意味しかなかったが、明治に自然破壊という意味の言葉が付け加えられたのである。
 自然は、カネをつぎ込んででも守らないといけないというヨーロッパの考え方に対して、日本では、自然は未だにタダであり、人間が守ろうという意識は芽生えていない。農業の近代化技術の発展によって、自然が破壊されてきたが、自然がタダであるという考え方でなければこれまでのような経済発展はあり得なかった。その自然を補償していては、発展はあり得なかった。自然はタダのままにしておいた方が都合が良かっただけなのである。
人間は、科学的な見方をすることを教育されてきたが、自然だけはそういう見方をあまりしない。だれが守っているか分析されていない。特に農学はそうである。田んぼでは、いかに効率よく生産をあげるかを研究してきたが、お金にならないものは価値観がないとして、だれも研究してこなかった。唯一そういうものを研究してきたのは、生態学で、生物多様性という考え方を提唱。様々な生物が存在しないと環境は良くならないという考え方。だから、日本人は、時々外から自然を見て、これを守っていけばよい。そして、また中へ入ればよいのである。これを唯一農学でやったのが、この「田の虫図鑑」である。この本では、益虫でも害虫でもない虫を「ただの虫」と名付けた。田んぼでは、この「ただの虫」が圧倒的に多く、実はこの「ただの虫」が田んぼを支えているのである。そして、この「ただの虫」は、学術用語としても認められている(議論になったが、最初に提唱した方を尊重)。

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